「PMT」から「虐待死をまぬがれて」配布活動まで

1.1999年、日本初のPMT(ポピュラーミュージックセラピー)CD「FAMILY」を発表

PMTとは、私が独自に開発した「岡田式PMT音楽療法」の手法です。
従来の音楽療法で用いられるクラシック音楽とは違い、ポピュラーな音楽を使って行うことが特徴です。
誰でも参加できて楽しんでもらうことが重要です。


2.1999年、かつしかFMで番組放送開始

かつしかFMで「岡田ユキの子育て応援ポピュラーミュージックセラピー」の放送が始まりました。
出演はもちろんのこと、構成、音楽も手がけて、従来のラジオ番組にはない、より真相に迫った、リアリティのある内容になりました。

親子関係が上手くいかないリスナーからの手紙に対して、番組内で相談の回答をしたり、私自身の親との問題や子育ての体験談を交えて、明るく楽しい時間を皆さんと共有しました。


3.2000年、自伝「みにくいあひるの子供たち」を発表

私が手掛けたラジオ番組を通して、フロイト・ユング・ロジャース他、既存の心理関係の本では「日本における虐待の問題解決」には、至らないということが分かりました。
なぜならば、日本には親子間の虐待に関する事例の書籍が無かったからです。
だからこそ、私の幼少期の体験が「とても貴重」だということを知り、自分自身の体験を事例として出版しました。
この書籍は全国の図書館に配架されて、多くの方に読んでいただきました。

読者からの手紙で、私と同じような体験者が声も上げられず、苦しんでいる真実を知りました。
これが後に「日本初の家庭内での虐待の事例」を記した貴重なものとなり、現在では再版されて英語にも翻訳され、海外でも多くの人に読まれています。

この当時は「虐待」という家庭内の機能不全状態は、世間一般にはまだ広く認知されていませんでした。
むしろ儒教の影響がまだまだ強く、親を非難する子供、つまり私(虐待を受けている子供の代弁者として)が「悪い人・間違った人」と、誤解を受けて、敵視されるそんな時代でした。

★TBSテレビ「NEWS23」筑紫哲也キャスター時代の担当ディレクターから「親子の虐待の問題を取り上げたい」ということで、 約一カ月間の密着取材を受けました。
番組の最後に「親子が泣きながら抱き合っている」和解のシーンを、映像上どうしても欲しいと言われました。
しかし私のような虐待を受けた人にとっては、そのようなシーンを作るということは完全に「嘘」になるので、「無理です」とはっきり断りました。
テレビとは、内容をドラマチックに見せるために「嘘」の映像を作らなければいけないということを、この時はじめて知りました。
虐待の問題は「本当の真実」を伝えなければ、取材を受ける意味が全く無いと考えていたからです。(それは現在も変わらず、同じ考えです)

虐待問題の解決は「虐待した親が、子供に謝らなければ解決しない」のですが、親は、自分が悪いことを知りながら意地でも、謝ることはしません。
むしろ子供を親に謝らせて「解決した」と見せかける事が、世間一般の人が納得できる親子の姿だったからです。
親が謝らないシーン(真実)を、撮影して欲しいと何度も訴えましたが、当時のディレクターは、虐待の本質に関する理解には程遠かったようです。

 

4.2001年、作家・井田真木子さんに出会う

友人を介して私の本を読んだ井田さんから「会いたい」と連絡を頂きました。
お会いしてみると、お互いに同じような被虐待体験を持っていたことが分かりました。
生まれて初めて、私の体験を理解出来る女性と出会い「これから一緒に活動しましょう」と、心強い言葉まで頂きました。

井田さんは、大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞を受賞されている、気鋭のノンフィクション作家でした。
代表作には有名な「プロレス少女伝説」や「小蓮の恋人」の他、エイズ問題の先駆けとなった「同性愛者たち」でも注目されていました。

しかし残念ながら、出会って一ヶ月後に逝去されました。

今では誰もが使う「心が折れる」という表現を、一般に浸透させた人でした。


5.2002年、宗教家では解決出来ない、虐待の本質

多くの人の悩みを解決されてきた、真言宗(密教)の僧侶が、私の本を読み「是非話を聞かせてほしい」と、連絡を頂きました。
「自分が相談を受ける親子の問題において、虐待の解決策が分からない」とのことで、私のところに学びに来られました。

私は、生まれ育ったのが京都なので、お坊さんや色々な宗教家を知っていました。
私も世間一般の人達同様、僧侶や聖職者といえば専門知識以外に哲学や心理学は勿論の事、親子間の問題までを学んでいると勝手な想像をし、思い込んでいました。
この僧侶から聞いた話では、少なくとも修行中は哲学や心理学・親子の問題他は関心がある人ならば個人的に学ぶでしょうが、僧侶を育てる教育機関では「一切そのようなことは教えない」と言う事でした。
その話を聞いて、あまりにも人間に対する知識が乏しく、驚きました。
(現実問題として、聖職者の中で前述の事を何も知らずに、自分の思い込みで他人の相談を受けている人がいると思うと大変怖い話です)
宗教では、虐待問題の解決には至らないということが、この僧侶によってはじめて分かりました。

その後の信頼関係から、僧侶は私のPMTアルバム「FAMILY」を聞き、真言密教の声明(しょうみょう)と相通ずるものがあるということで「是非自分に合う音楽を作ってもらえないか」と依頼され「岡田式PMT音楽療法」を使い作品を制作しました。
僧侶は私の理論とその作品を使い、相談に来ている人たちを助けていました。

★僧侶は出家以前は、一般の家庭で育ち、普通に大学を卒業して、一般の企業に就職し、その後独立開業しました。
日本のみならず海外での取引で多くの人間に会い、比較的世の中を広く見てきた人です。
なので、僧侶としては異色のタイプでした。

一般の僧侶はお寺に生まれ、後継ぎとして仏教系の大学から修行に入り、僧侶となられる方が多いと聞いており、私の同級生もそのタイプで、現在も僧侶として跡を継いでいます。

私の元に学びに来ていた聖職者の多くも、世間一般を広く知っている前述の僧侶のタイプでした。

★その他にも、教戒師の僧侶・牧師・保護司さんたちが、虐待の問題に関して私のところに学びに来ていました。

★教戒師とは、拘置された死刑囚と唯一面接できる民間人である。
面接を望む死刑囚と対話し、ときに悔悟(かいご)を促し、教え導く役割を負う。
そしてさらに、面接を続けた死刑囚の刑の執行にも立ち会う。(堀川恵子著「教戒師」より)



6.2003年、靖國神社「音楽法要」

前述の真言宗の僧侶が出家したきっかけを伺いました。
出家以前は商社マンとして、世界中を飛び回って仕事をしていたそうです。
ある時、南方の島で遺骨収集団の人達と出会い、「遺骨を日本に持ち帰って欲しい」と託されたそうです。
一晩その遺骨とホテルで過ごした際に、これまで感じたことのない恐怖を体験したそうです。
「もし自分が僧侶として修行していれば、この遺骨の霊魂を鎮められるのに」という思いが、帰国後も膨らみ、仕事を辞めて、出家して僧侶となったそうです。

修行後僧侶となり、前述のように相談を受けている中で、相談者の一人に靖國神社の権宮司がいたそうです。
檀家さんから預かっていた戦時中の遺品を権宮司を通して、靖國神社に納められたそうです。
その際に出家したきっかけを尋ねられ、 前述の話(遺骨を日本に持ち帰った話)を権宮司に伝え「自分の僧階が上がったら靖國神社でご英霊の供養がしたい、それが自分の夢です」と語ったそうです。
その言葉に権宮司は動かされて「どうぞ靖國神社でご英霊の御霊に祈りを捧げてください」と思いがけない返事を貰ったそうです。
しかし、僧侶だけでは何をして良いのか判らず、私に相談がありました。

私は「音楽を使った法要しか出来ません」と伝えました。
靖國神社の権宮司は、以前僧侶に依頼されて作った「岡田式PMT音楽療法」のCDに感銘を受けていたそうです。
そして「是非拝殿で音楽法要をして下さい、岡田先生が歌われるのでしたらご英霊の御霊が喜ばれると思います」とお言葉を頂きました。

私はこの音楽法要の打ち合わせの為に、初めて靖国神社を訪れました。
それまでは靖國神社の歴史も知らず、テレビの報道等で「一般人の私たちはうかつに立ち入ることのできない」場所だと思い込んでいました。
実際に足を踏み入れてみると、なんともいえない清々しい気持ち良さを感じ、曲のイメージが湧いてきました。
音楽法要のテーマソングとなる「遥かなる時を超えて」がこの時のインスピレーションで出来ました。
当日は、拝殿から本殿に向かって英霊の皆様に歌を聴いてもらい、私の後方では普段通り多くの方が参拝されていました。
まるで夢のような、現実感のない音楽法要を体験させて頂きました。

音楽法要後、改めて靖国神社に呼ばれ、権宮司から靖國神社の歴史をお聞きしました。
そこで「遥かなる時を超えて」を「是非、靖國神社のテーマソングにしていただけませんか」と言われました。
2004年の大晦日から元日にかけて、毎年恒例の観世流宗主による拝殿での鎮魂法要舞の後、私が「遥かなる時を超えて」を能楽堂で歌いました。


その時に遊就館の館長自らが、参拝客にCDを販売し、遊就館の売店にその後も置かれておりました。

権宮司のお話では、靖国神社の拝殿で雅楽や軍楽隊以外で音楽のライブ(電子楽器等を使用して)をするのは、神社創設以来初めてとのことでした。

★これまで著名なJ-POPの音楽家が靖国神社で結婚式をする際、拝殿でのライブ演奏を申し込んだそうですが、お断りされたそうです。

★演歌や歌謡界の大御所達から「靖国神社のテーマソングを歌いたい」と申し出が度々あったそうですが、お断りされているとのことです。

振り返ってみれば、このような神聖な場所での歴史に残る体験が、その後の私の活動に大きな変化(自信や力)を与えました。
英霊の皆様からも「日本の虐待の問題を解決して下さい」と言われているように感じて、頑張ろうと思いました。
それ以来、私は靖国神社にお参りさせて頂くようになりました。


7.2004年、「虐待死をまぬがれて」執筆

「みにくいあひるの子供たち」は、虐待を受けた当事者の体験事例として執筆しましたが、4年経過し、その間に多くの人の相談を受けるようになっていました。
虐待の問題を知らない人達は、好き勝手に誤解し、テレビや出版物で間違ったことを報道しては、映画やドラマで、ホラー作品のように表現していました。
そのおかげで、虐待の問題を理解して欲しい一般の人からも「みにくいあひるの子供たち」は「怖い話だし、読みたくないし、知りたくもない」と言われることがありました。(その反面、苦しみを理解してくれた人もいました)
私は誤った報道によって、真実が歪められることは絶対に許せませんでした。

当時は、私のように幼少期虐待を受けた人のことは、人間以下の人格欠落者のように報道されていましたので、虐待の体験者は声を上げられず、社会からひっそりと隠れるように生活していました。

そのため早急に、自分自身の体験をカウンセラーの立場で分析して著述し、誤解している人たちに正しく理解してもらう必要があると考えました。
そうして「虐待死をまぬがれて」を新宿区の社会福祉協議会のご協力を得て、制作しました。

★前年に池田小事件の被告、宅間守の死刑判決が言い渡されました。
その判決に関して東海女子大学の長谷川博一助教授がテレビ報道等で言っていた「虐待の問題」に関して、彼自身誤った見解を持っていたので、それを正そうと思い、私はアポイントメントを取って会うことになりました。
長谷川博一助教授は、心理学者として刑事事件(宅間守・宮崎勤・他)における被告の精神鑑定を務めたり、東ちずる・柳美里・他の親子関係のカウンセリングもしていました。

お会いして、虐待の問題を理解している部分もありましたが、実際に理解していないところもありました。
テレビ等では製作上、真実を言える事、言えない事もあり、虐待の問題を歪めて話している事もあったという事で、私は「影響力のある人が、それだけはやらないで欲しい」とはっきり言いました。
どこまで理解出来たか分かりませんが、それがきっかけで一緒に活動することになりました。

★時を同じくして、栃木県小山市で4歳と3歳の兄弟が虐待されて死亡する痛ましい事件が起こりました。
栃木県県南児童相談所の担当職員たちは、虐待問題の知見がなく、兄弟たちを父親の元に返したことが事件の一因と報道されていました。

 

8.「虐待死をまぬがれて」無料配布事業

時代の流れによって「虐待死事件」の報道が相次ぐようになり、ありがたいことに一般の人にも虐待という親子の問題を、認識してもらえるようになりました。
しかし、連日報道されるようにはなったものの、児童相談所をはじめ、相談を担当する人達の誤った判断により、多くの尊い命が失われている現実も知りました。

★誤った判断とは、以下の内容です。
子供を虐待している親は未熟な為、親になる準備が出来ていないにも関わらず、親になってしまったので問題を起こしています。
未熟な親は、手がかかる子供に対して、煩わしさを感じ、子供をペットのように扱って、煩わしいという思いが、行動に移ってその結果、子供を死に至らしめてしまいます。
そこに儒教の考え方がプラスされて、一度虐待で親から離した子供を、最後は親元に戻して「虐待した親に育てさせる」という考え方があるために、虐待死事件が起こるのは、当然の結果です。

虐待を体験した私から言いたいことは、虐待を受けた子供を施設で育て直すのではなく「虐待した親を、施設で厳しく育て直す」必要があるという事です。
それを専門機関の人が、理解しなければ虐待死事件は無くなるはずがありません。
(ラジオ番組から始まって「みにくいあひるの子供たち」「虐待死をまぬがれて」で前述の内容を訴えてきた)

★「虐待死をまぬがれて」は当初、無料ということは全く考えていませんでした。
しかし、あまりにも虐待に関わる専門家達が「無知」なので、早急に「虐待を防止する理論」を知ってもらわなければいけないと思い「虐待死をまぬがれて」を無料配布する事にしたのです。

新宿区子ども家庭課を皮切りに、都内、近郊の担当部署や子ども家庭支援センター・児童相談センターや子育てに関連する機関・組織・法人・個人に無料配布を行いました。
連日、上記の担当者たちに電話で虐待の問題を説明し、興味を持って会ってくれる人もいれば、けんもほろろに断られた所もありました。
その様な中、我孫子市の福嶋浩彦市長(当時、後の元消費者庁長官)には丁寧に対応して頂き、担当者数名を市長室に集めて話を聞いてくれました。

無料配布事業を実際に行ってみると、最初の予想とは全く違う現実がありました。
行政の窓口の職員は「役所で指定された虐待の専門家からすでに勉強しているので、虐待の体験者からの情報などは無料でもいりません」とはっきり断られたのです。
それが一件ではなく、複数の行政・機関で同じようなことを言われるので、大変驚きました。

時間・労力・お金を使い、正しい情報(虐待に関する知識)を知ってもらいたいという信念だけで動いてきた私でしたが、大きな組織の力によって、一個人が「どれだけ伝えようとしても、聞いてもらえない」という現実を知り、心が折れました。
しかし、連日の虐待死の報道を聞くと、心が治まらず、奮い立つというように、私自身の心が多きく揺れ動きながらも、真実を見ることが出来た活動でした。

 

9.配布事業によって見た真実

その中にはこのような事もありました。
新宿区社会福祉協議会の担当者から、新宿区で虐待防止のセミナーがあるので「一緒に行きましょう」と誘われて、参加した時の事です。

①児童相談所の児童福祉司は「自分達ではこれ以上虐待の問題の対処ができないので、皆さん自分に協力して助けて欲しい」と言った。

②児童相談センターの職員は約3年ごとに移動となり、殆ど素人の集団であったことに驚いた。

★命に関わる仕事(公務員)とは自衛官・警察官・消防官・海上保安官・出入国管理警備官・麻薬取締官等をはじめ、個々の専門の厳しい訓練を受け、研修期間等を経て市民の命を守る職責についている。

子供の虐待の問題に関しては、命の問題が直結しているにも関わらず、児童相談所等の職員は、役所の窓口の担当者がころころ変わるようにすぐに異動するとのこと。
虐待に関する知見が全く無く、子供を助ける技術・方法も学んでいないということを知った。

加害者である親の意見を重視し、最終的に親元に子供を帰すという方針の元に従って、盲目的に行動している事をはじめて知りました。
知見を深めようという意思が無い為に、虐待の体験者の声を聞こうとすることも、一切ありませんでした。

この人たちは、虐待の問題を解決したいとは一切思っていないということが、はっきりと自覚できたセミナーでした。
無知な行動によって、虐待の問題を解決するどころか、起こるはずの無い事件を、間違った介入によって「虐待死事件にまで発展させていた」という真実を知りました。
大変恐ろしい話を聞いて「こんなこと許されても良いのだろうか?」と大きな疑問が湧きました。

③社会福祉法人子どもの虐待防止センターの代表が、虐待の問題の話をしていたが、問題の捉え方に違和感を感じた。

④質疑応答の際に司会から会場参加者に意見を求められ、私も発言した。

「世間で言われている虐待事件の問題点は、被虐待体験者から見ると全く逆です。自分は虐待の体験者としてその心理を冊子にして無料配布活動をしています。 被虐体験者の心情や助け方が理解出来ますので、是非有効に使って頂ければ嬉しいです」と言いました。(児童福祉司が「助けて欲しい」と言った言葉を真に受けて)

たった一人でしたが、会場にいた虐待を何とかしたいという意識のある人から「興味があり是非読みたいので下さい、岡田さん、可哀想な体験をしましたね」と声を掛けられました。

ここにいる他の参加者(児童福祉司をはじめステージにいる人たちも含む)は、そこに参加することに意義があって、虐待の問題を解決したいとは思っていないように感じました。

★その後数日経ってから、新宿区区長秘書課から「目立って、アピールした、公務員でもないのに民間で出しゃばるな」といった内容の電話がありました。
その話を聞いて、セミナーに誘ってくれた社会福祉協議会の担当者は怒って「それは全くの言いがかりだ」と、逆に厳重に抗議をしてくれました。

行政と民間では上下関係の障壁があり、草の根では難しいという事をこの体験によって、はっきりと知ることが出来ました。
私の伝えたいことを行政の人達に理解してもらうには「首長等のトップダウンで指導してもらうしかない」と強く感じたセミナーとなりました。


10.2004年10月7日栃木県・小山市「県南児童相談所」を訪問した。

前述の新宿区のセミナーでの児童福祉司の話と、連日のように報道されていた小山市での兄弟の虐待死事件に際して児童相談所の対応が、どのような経緯で痛ましい事件にまで発展したのかを知りたいと思い、栃木県県南児童相談所に電話をしました。

児童相談所の担当者は、自分たちも「虐待の体験者の話や心理が聞きたい」ということになり、県南児童相談所を訪問することになりました。

★栃木兄弟誘拐殺人事件(小山市兄弟虐待死事件・2004年9月11日)とは、
公判での被告人陳述による概略として以下説明
事件被告の下山明宏の暴走族時代の先輩・小林保徳被告(覚せい剤取締法違反事件)が子供を連れて、下山の部屋に転がり込んできた。
家賃、生活費、養育費もすべて父親の小林被告にたかられ、子供の面倒を強要されても、先輩である小林被告に文句を言えなかった。
その不満のはけ口を、日頃から小林被告の子供たちにぶつけていた。
また父親の小林被告も子供達を日頃から虐待していた。
下山被告は自身の娘と、小林被告の子供達をゲームセンターに連れて行き(当時誘拐と報道されたが現在は、見込み捜査との異論もある)暴行してしまった。
その子供たちの姿を、父親に見つかって叱責されることを恐れて、二人の殺害に及んだ。
当時の報道では、児童相談所は大人二人からの虐待の事実を認識していたにも関わらず、機能不全家庭である下山の部屋から子供達を保護しなかったことも、事件の一因として非難された。

★一般に児童相談所は、虐待を受けた子供を一時保護した後でも、親への指導・教育と家庭の再構築(子供を虐待した親に帰す)を是とする上からの指導圧力に従っており、法的に訴訟(親権確認、一時保護差し止めの仮処分命令等)を親から起こされることを極端に嫌がるという話を、ある児童相談所の職員(管理職)から当時聞いていた。

訪問した県南児童相談所は、虐待問題解決に対する知見が無い為に、虐待死事件まで発展してしまったとの経緯の説明をして「自分たちは虐待の事を何も知らず、命を守れなくて申し訳ありませんでした」と、私に謝罪し「虐待死をまぬがれてを読んで勉強させて頂きます」と言われたので、冊子とともに、東京都児童相談センターの職員から預かった東京都の資料も、一緒に置いて帰りました。

★担当者に「県内の民間の団体で、虐待の問題に特化して活動しているところはありますか?」と尋ねた所「自分たちは知らない」との回答でした。

 

11.オレンジリボン運動ができるまで

県南児童相談所を訪問後、小山市社会福祉協議会を訪問し「虐待防止の活動をしている団体はありますか?」と質問したところ、県内、市内にはそのような団体はひとつもないとの回答でした。
連日の報道で虐待死事件が発生しているにも関わらず、世の中の人達の虐待に関する認識は、こんなに低いのかと改めて実感させられました。

しかし「カンガルーOYAMA」という里親支援の団体があるとのことで、連絡をしてみましたが不在の為、日を改めて連絡することにしました。

その1年後に、厚生労働省からの支援もあったようで「カンガルーOYAMA」を中心に「オレンジリボン運動」が、始まったようです。
運動発足当初に数度連絡は頂きましたが、運動が発展するとともに当初の人達とは連絡が取れなくなりました。(虐待死をまぬがれてを欲しいということもありませんでした)


12.「児童虐待ゼロ目指し」読売新聞記事

2004年8月20日の読売新聞に「虐待死をまぬがれて」の無料配布活動が記事として掲載され、当初私が考えていたよりも多くの人から連絡を頂きました。
一般の人たちの虐待問題に対する意識の高さを知り、今迄は虐待の問題を解決するには、行政しか出来ないと思っていましたが、この記事の反響により「虐待死をまぬがれて」の配布先が違うということが分かりました。
違う方向に目を向けたことで、虐待の体験・心情・解決策を聞かせてほしいと言われ、さまざまな場所で講演依頼を受けるようになり、自分が本当に伝えたかった「虐待されている子供の心理」を代弁できる機会を頂きました。

その時期は、子ども家庭支援センターが少しずつ出来ており、職員になったばかりの人達からも「話を聞かせて欲しい、冊子が欲しい」と言われることもありました。

★子ども家庭支援センターとは、2004年に施行された改正児童福祉法に基づき、児童相談所が受け付けてきた相談業務を市町村自治体の業務とすることが明確化されたために、児童虐待の早期発見、防止を図ることが求められ、東京都ではそれに先駆けて積極的に整備が進みました。
各地方公共団体では、社会福祉施設などへの業務委託を行う方法で運営しているケースが多くみられます。(平凡社世界大百科事典 第2版・朝日新聞社コトバンク 2018年現在の資料より参照)

 

13、著名な方への無料配布
私はこれまでの活動の体験を踏まえて、著名な方は社会における影響力が高いと思い、関心を持って頂けそうな方に「虐待死をまぬがれて」を無料配布させて頂きました。

湯川れい子さんには何度かお会いして、親身になって相談に乗っていただきました。

☆京セラ会長の稲盛和夫さんは、京都に児童養護施設や乳児院を作られたということを新聞記事で知って、送らせて頂いたところ、ご丁寧なお礼状を頂きました。

☆以前からご理解を頂いている歌手の矢沢永吉さんに送らせて頂いたところ、無償配布にも関わらず、頒布のためのご寄付まで頂きました。

☆法政大学教授の田嶋洋子さんに送らせて頂いたところ、無償配布にも関わらず、頒布のためのご寄付を頂きました。

☆拉致被害者の会の横田滋さんに送らせて頂いたところ、めぐみさんへの心情も綴られたご丁寧なお礼状まで頂きました。

☆著名なジャズピアニストの今田勝さんからは、無償配布にも関わらず、頒布のためのご寄付を頂きました。

上記の皆様からのご厚意があり、著名な人たちにご協力して頂いた結果、行政も動いてくれました。

著名な人たちの中でも虐待に関する意識の温度差、また新聞記事の反応によって、一般の人達と行政との意識の違いが大きいと感じました。

 

14、冊子「虐待死をまぬがれて」のその後
「虐待死をまぬがれて」初版は、新宿区社会福祉協議会のご協力で制作することが出来ました。
その後は、皆様のご協力を得て、第4刷まで発行し配布活動を継続することが出来ました。

 

無料配布事業を終了した後は「虐待根絶マニュアル」(上記バナー)
(虐待を受けた人の悪癖に気付くためのマニュアル本)
に転載され、現在も多くの方に読まれています。

 

 

コンテンツ

    少女

 

 

 

  ♪1996年、岡田ユキが♪
いじめ・虐待防止の市民活動団体
サークル・ダルメシアン」を
立ち上げました。   
岡田自身の子育てや幼少期に親から虐待を受けた苦しみを乗り越えた体験を元に、同じような苦しみを抱えている人たちの問題解決になればとの思いで、活動していたところ、仕事仲間の音楽家たちが賛同して集まりました。 ♪♪♪