心理・医療関係者の方には必ず読んでいただきたいこと

バブさん(スマナ・バルア医師)と20年ぶりに再会しました。
バブさんとは、1999年にCD「FAMILY」を出版した際、厚生労働省の知人からご紹介を受けました。

当時の私は、心理カウンセラーの仕事よりも、私が独自に開発した音楽療法の手法「PMT」(ポピュラーミュージックセラピー)が日本国内のみならず、海外でも認められて、ある国(A国)の国家元首から曲作りの依頼を受けました。

私が作った曲は、A国の与党のテーマソングとなり、日本国内でA国のイベントが開催されるたびに、私はゲストシンガーとして招かれて歌いました。
A国にとっては、海外で開かれるイベントなので、国家元首も簡単に来日することが出来ず、その代りに国営テレビが毎回取材に来ては、日本でのイベントの様子をA国内のテレビで放送していました。
私が作った曲は、A国の多くの人や、国家元首にも大変気に入っていただけました。

突然A国の使者から、「国家元首が岡田先生をA国にお招きして、直接お礼を申したいと言っておりますので、来訪して下さい」と言われました。
当時、厚生労働省の海外事業団の方とPMTの関係で交流があり、彼から「世界で活躍し、日本人の文化や考え方も良く理解しているバングラデッシュの医師がいるので、紹介しましょうか」との申し出があり、この時がスマナ・バルア医師との初対面でした。

スマナ・バルア医師(バブさん)は、バングラデシュ出身で、「人間として人間の世話をする」という医療の原点を忘れないように、「金持ちよりも心持ちになろう」と、若い人々に訴え続けている、素晴らしいお医者さんです。
私はサークル・ダルメシアンの22年の活動において、多くの医療関係者とお会いしましたが、バブさんのような心ある医師とは、数える程しか出会うことが出来ませんでした。
人として、医師として、人生の先輩として、本当に尊敬できる方です。

 

【活動報告1】

2018年2月、バングラディッシュのアグラサラ孤児院で開催された、

「ヴィシュダナンダ・マハテロ僧正 生誕祭」のセレモニーに、

岡田ユキ代表が来賓として招かれました。



1995年に亡くなったバングラデシュ仏教界の最高峰ヴィシュダナンダ・マハテロ僧正の祖先は、もとはマガダ国(釈尊時代、16大国の一つであり、インドを最初に統一した大国)の住民だといわれており、中国からの留学僧である法顕や玄奘(西遊記の三蔵法師)の著述の中にもそのことが描かれています。

ヴィシュダナンダ・マハテロ僧正はその21代目にあたり、「ダライ・ラマ14世」の仏教界における導師であり、マザーテレサには兄と慕われ、彼女の数々の業績においては陰ながら尽力したことで有名です。

さらに「全世界仏教者会議」(昭和天皇に招かれ第一回は日本で開催)を招集し、世界宗教者平和会議創設理事を務め、マハトマ・ガンジー賞(ノルウェー)、アジア平和賞(モンゴル)などを受賞しました。

1977年に起こった「ダッカ日航機ハイジャック事件」の解決にも、大統領から要請を受けて、その解決に尽力しました。


 

以下、バブさんに関する記事をまとめました。

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「人間として人間の世話をすること」
(http://irohira.web.fc2.com/Bab/02BabMokuji.htm)より転載

バングラデシュ生まれのスマナ・バルアさんは、医者になることを夢見て日本へやってきた。
しかし、日本で目にしたものは目指していた医学とはかけ離れた「機械の医学」「医学のための医学」だった。                 
日本を離れ、地域医療を身体で学び臨床医の資格を取得し、再び来日し、東京大学医学部に新設された大学院課程で修士号と博士号取得した。 
現在は医療・福祉の専門家を育てる国際医療福祉大学で教鞭を執る一方、日本のODA(政府開発援助)や国内外のNGO(非政府組織)のアドバイザーとしての活動も続けている。

「私が子供のころ、親しくしていた村の女性がお産のときに亡くなりました。
彼女の家の門の外で待たされていた私は、母や姉が泣きながら出てくるのを見て、「女性がお産で死ぬなんて、とても悲しいことだ。よし、将来必ず医者になって村人の健康のために働こう」と心に決めました。
1967年、12歳のときでした。 (当時は、乳児の死亡率がとても高く、1000人のうち140人は生きていけない)
バングラデシュの短大で医学部に進学するための基礎を学んだ後、先進医学を学ぼうと京都の大学で学んでいた兄を頼って、昭和51年(1976)、25ドルをポケットに日本へ来ました。

日本語学校で日本語を学んだあと、大学医学部への入学のチャンスをうかがいつつ、いろいろなアルバイトをやって学費を貯めました。

中央高速道路の小淵沢インターチェンジ建設の工事・長野県八ヶ岳の麓でゴルフ場の芝生づくり・静岡県でお茶摘み・京都の飲食店では皿洗い他、朝の6時半~夜中の2時まで1日に7つの仕事をしていたこともありました。
真冬の夜中にがたがた震えながら自転車で、アパートまで帰ったことを覚えています。
たくさんの仕事に取り組んだのは、生活費を稼ぐためでもありましたが、同時に、日本のさまざまな人々の暮らしぶりを身近に学びたかったからです。
発展する日本社会を支える等身大の働く人々の姿から、直接日本について学ばせてもらおうと考えました。
長距離トラックに乗せてもらって荷物の積み降ろしを手伝いながら、東京から山口県下関まで何度も行きました。
冬に北海道の知人の漁師の家を訪ねて、漁船に乗って仕事をしたのも、人々の働く姿を知ることが、将来医者になったとき役立つだろうと考えたからです。

病気を診るときに、医者が患者の日常の暮らしのありように想像を広げることができるのは、重要なことです。 
レントゲン写真やCTスキャンに生活は写りませんから。

しかし、こうして働いている内に、私はいつの間にか「外国人労働者」になっていることに気づかされました。 いまから20年以上も前の話です。
当時の日本にはバングラデシュ人は、大使館員を含めても50人もいませんでした。
ほかの分野ではパイオニア(先駆者)になれなかった私ですが、若い私はこの時「外国人労働者」のパイオニアになっていたのです(笑)。

実はこの頃の私は、日本で学ぶことのできる医学の意味に疑問を感じ始めていました。
バングラデシュの村で村人のために医者として働きたいと願っていたのですが、豊かな日本で目にした先端の医療技術は、機械を駆使した、もっと言えば機械に頼った医療でした。
バングラデシュの電気の通っていない私の村では使えないし、第一、そんな機械を買うお金もない。
私の理想とする医療像とはかけ離れていることを、残念ながら感じ始めました。
そこで私は、長野県佐久総合病院の若月俊一博士が提唱された「農村医科大学構想」に共鳴してつくられたフィリピン・レイテ島のフィリピン国立大学レイテ校で一から勉強し直して、地域の人々に本当に役に立てる医者を目指そうと考え、いったん日本を離れたのです。  

<人間として人間の世話をすること>
スマナ・バルア医師のことを、周囲の人々は「バブさん」「バブ先生」と呼ぶ。
バブさんは、東大医学部大学院で学ぶ傍ら、WHOのコンサルタントとしてインドネシアやベトナム、ミャンマーでハンセン病対策国家プロジェクトに参加したり、JICA(国際協力事業団)のPHC(プライマリー・ヘルス・ケア) 専門家養成コースの研修アドバイザーやPHCのガイドライン作成委員などを務め、国際保健学の博士課程も修了した。

バブさんは熱心な仏教徒の家庭に育った。
超宗派による世界平和活動に邁進、全世界仏教者会議を招集し、世界宗教者平和会議創設理事を務め、マハトマ・ガンジー賞(ノルウェー)、アジア平和賞(モンゴル)などを受賞し、95年に亡くなったバングラデシュ仏教界の最高峰ヴィシュダナンダ・マハテロ僧正は、バブさんの叔父に当たる。
孤児院や教育施設を設立し、インド亜大陸の社会福祉の先駆者として知られるマハテロ僧正の「鞄持ち」として世界の指導者と接する機会が多かったことも、現在のバブさんに大きな影響を与えている。
また、学生時代は、マザーテレサの元で、ボランティア活動もされてきた。

                             

<いま医学教育には三つのことが欠けている>
一つは人間学です。
医者も患者も同じ人間で、社会の一員です。ですから人間というものがわからなければいけない。
人間の弱さ・ずるさも含めて、深いところで人々を理解しようと努めることが重要になります。
そうしなければ人間として人間の世話をすることができません。
だから医者を目指す人には、人間学としての社会学を勉強してもらいたい。

二つ目は哲学です。
philosophy of life(生きる意味)、individual philosophy( 自分で選びとった生き方)が大切です。
他の人々の生き方・考え方を深いところで受け止めて学び、理解するための哲学と洞察力が必要です。

それから、あえて三つ目に挙げるとすれば、ボランティアのこころです。
voluntary spirit(ボランティアの精神)、mission(使命感)がなければ、せっかくの人間学も哲学も活かしきれないでしょう。
医学にも科学技術にも、残念ながら人間としての哲学・精神の光が欠けています。
だから、政府のODAなど外国への開発援助の場面でも「お金だけ渡せばいい」「モノだけあげておけばいい」という形だけの援助になってしまい、内面の「開発」にまで届いていかないのです。

産科医・小児科医・救命救急医、今、医師が足りないことが大きな問題になり始めています。
地域の基幹病院が次々と閉鎖されています。
夜間の救急診療が十分に対応できなくなっており、医療を巡るさまざまな問題は、メディアを賑わせ、「医療崩壊」という言葉も生み出しました。

私たちが必要としている「医療」とは、いったいどういうものなのだろうか。
それは医師がギリギリまで身を削って行う奉仕でもなければ、医師が圧倒的優位に 立って患者に接するものでもない。
いわば医師と患者とその家族が、対等に「病」に向き合うことではないだろうか。  

10月1日から栃木県大田原市の国際医療福祉大学の医療経営管理学科で講師として教え始めたバブさんは、その最初の授業で学生たちに、開口一番、こう語りかけた。

「みなさん、世界の国々の実情を知ってください」そして、スライドを見せ、自己紹介代わりにと、自分のたどった足跡を語り始めた。
「私が小学生のときに、お産をした女性が亡くなりました。
日本に来ても労働者になってしまいました。
けれども、そこから私の自分探しの旅が始まったのだと思います。
フィリピンのレイテ島の事を知っていますか?
戦争の舞台になった所です。
誰が悪かったとかではなくて、事実を知ってください」
バブさんを国際医療福祉大学に招いた紀伊國献三教授は、「日本の外の世界で五十億の人々がどうやって生きているのか、どうやって生きていけばいいのか、本当の意味での『国際化』とは何か、そういったことを学生に考えてほしくて、バルア先生に来ていただきました」と期待する。

「ソトコト」
https://www.sotokoto.net/jp/interview/?id=19)より転載

<いのちの対談にて>
今回の来日では、2週間ほどの滞在ですが、スケジュールを拝見しますと、びっしりと予定が詰まっていますね。成田に夕方着いて、その夜には、川田龍平さん が主宰する「いのちの対談」にゲストとして参加されました。 会が終わってからも、バブさんのところに人の輪ができていて、あらためてバブさんが日本で培われてきた人脈、人とのつながりを実感できました。
人気者ですから(笑)。というのは冗談ですが、2002年に日本を離れてからも初来日は1976年、その後93年~2002年日本在住)、毎年少なくと も1回は日本を訪れています。
昔の友人に会ったり、現在、WHOで関わっているハンセン病について講演をしたり、若い医学生と語り合ったり。
1度日本 に来ると、100人、200人という人たちと出会うことができます。
バブさんの話を聞きに集まってくる人はさまざまですが、やはり若い人たちが多いと思います。

「スマナ・バルア氏講演・世界こども財団報告会のご案内」
(http://www.fgc.or.jp/blog/archives/3255)より転載

WHOの世界トップリーダーとして長年、世界中で活動されてきた医学博士「バブさん」ことスマナ・バルア先生が、昨年WHOを退職され、2016年度より星槎大学の特任教授に就任します。 世界こども財団のさまざまな活動にも、バブ先生のご協力をいただいています。

(転載終了)

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【活動報告2】


岡田ユキ先生は、約20年ぶりにスマナ・バルア博士と会談しました。
博士から「ユキさんがこの20年、頑張ってこられたことを私は嬉しく思います。日本のマザー・テレサになられましたね!」と、奨励されました。

続けて「日本の若者の幼児化(子供化)が急激に進み、驚いています。
私の元にも親子の問題で相談に来られる方が多くて、ユキさんから学ばせて頂いた「岡田式AC判別法Ⓡ」はとても分かりやすく、役に立つものだと思いました。これから一緒に、幼児化してしまった大人達が自立し成長できるように頑張って行きましょう」と話し合いがされました。


これからの20年も、岡田先生は、益々パワフルに活動されることでしょう。

心理や医療関係者の方には、スマナ・バルア博士のような         「人を見る目と、心を診る目」を持った上で、患者さんに接して頂きたいと   願います。

Sumana Barua スマナ・バルア
医師、医学博士。1955年バングラデシュ生まれ。76年来日。
79年フィリピン国立大学医学部レイテ分校入学
助産師、看護師、医師の資格を取得。
89 年バングラデシュに戻り、地域医療に従事しつつ医科大学で教鞭をとる。
地元NGOの保健医療コーディネーターとしても活動。
93年から東京大学医学部大学院で国際保健計画学を学び、
96年修士号、99年博士号を取得。
WHO(世界保健機関)のコンサルタント、
JICAのPHC研修コースアドバイザー、
WHO西太平洋地域事務所(マニラ)医務官を経て、
WHO南東アジア地域事務所(ニューデリー)医務官。
2016年WHOを退職し、現在、星槎大学特任教授

 

コンテンツ

    少女

 

 

 

  ♪1996年、岡田ユキが♪
いじめ・虐待防止の市民活動団体
サークル・ダルメシアン」を
立ち上げました。   
岡田自身の子育てや幼少期に親から虐待を受けた苦しみを乗り越えた体験を元に、同じような苦しみを抱えている人たちの問題解決になればとの思いで、活動していたところ、仕事仲間の音楽家たちが賛同して集まりました。 ♪♪♪