サークル・ダルメシアン設立までの道のり

<岡田ユキの子育て体験・親の習慣の違いが、子供のイジメに変わる時>
1992年に私は、当時小学2年生の息子を連れ、シングルマザーとなって、京都から上京しました。
東京は、私たち親子にとっては希望に満ちた、素晴らしい思い出が作れる場所と思っていました。
一日も早く東京に馴染めるように息子は、関西弁から言葉を標準語に直し、私は親としての自覚と、息子との生活を守るために日々慣れない環境と闘っていました。
そんな中、息子に思いもよらない大きな変化が現れました。
息子は小学1年生を京都で体験しており、クラスでは人気者でした。
その自信もあり、新たな東京のクラスメートとの出会いを何よりも心待ちにしていたのです。
しかし、いざ新学期が始まって楽しいはずの学校生活が、日々辛いものになって行きました。
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何故、何が、息子を苦しめているのか?
息子はただ、ただ、描いていた現実が、あまりにも違うものとなっているようで「悪夢」を見ているかのごとく、常にイラついていました。
原因も全く分からず、何が起こっているのか?
それが良い事ではなく、悪い事というのは明らかでした。
イジメられている子どもや親の感覚は、多分この時の私たち親子と状況が似ていると思います。

息子は、担任をはじめ、クラスの全員に受け入れられず、イジメの対象者にされていました。
その原因は、どこでも、誰でも起こりうることだったのです。
生まれ育った、京都と東京の文化の違い」から、問題が生じていたのです。

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息子の様子がおかしいことに気づいた私は、担任に電話をし事の真相を知りました。
担任が言うには「岡田君は、ストレスが多くとても暴力的で私は理解できない、その原因は家庭にあるのではないでしょうか?」と言われ、心無い言葉に、大変心が傷つきました。
環境の違う東京で、私ひとり仕事や生活に追われながら、必死で息子との生活を守っているのに、息子はなぜ、学校で上手く友達と付き合えないのか?
息子に対して理不尽な怒りが込み上げてきました。
しかし一番つらかったのは、むしろ息子の方でした。
私に責められ、学校でも理解されずにイジメられる。
原因も分からず息子の味方は誰もしてくれず、孤独で耐えるしかなかったのです。

当時イジメが原因で中学生が自殺した、「鹿川君と大河内君の事件」が起こっていました。

 

<原因究明>
有り難い事に息子の小学校は、運動会が5月にありました。
ここで原因を突き止めなければ私達親子はダメになると思い、必死で息子の姿を追いかけて、友人達との関係を観察しました。
そこでイジメの原因はわかったものの、あまりにも意外な事実に大変驚き、また言い知れぬ恐怖を感じました。
イジメの原因は、関西人の習慣や風習(他人を喜ばせる)の違いでした。
それが子ども達や担任に受け入れられず、「狂っている」と、誤った解釈をされたのです。
息子に限らず関西人は、関西弁で漫才師のように話しが盛り上がると、さらにその場を盛り上げようと面白い話をしたり、人を軽く叩いたり、体に軽く触れたりして、他人とコミニュケーションを図ろうとします。
ところが当時の息子は、標準語を使い関西文化のボディタッチで、友達に接してしまったので、その行為を「暴力」だと、勘違いされてしまったのです。
息子は、クラスの皆と仲良くなりたい一心で、短期間で標準語を覚えました。
しかし、自分達と同じ言葉を使い「人に暴力を振るう」と、誤解された息子の行動は、担任も含めて誰も理解が出来ず、「みんなの敵」と見なされてしまったのです。

ここで大切なことは、教師は本来、生徒の家庭の文化・習慣・風習の違いを熟知し、接しなければいけなかったのですが、息子の担任は全くそのことに気付きもしませんでした。

 

<問題解決> 
運動会は子どもにとっては楽しい行事ですが、家族の前で結果を出さなければいけない緊張感もあります。
当時の私は新参者で、息子のイジメ問題もありましたが、それ以上に父兄たちの眼が怖かったのです。
息子を助けなければいけないと思いながらも、父兄たちにどのように自分が見られているのか、ここで失敗すれば、息子以上に私もここに来ている父兄に受け入れられず、人間関係が築けなくなることを恐れるあまり、大変な緊張感を持ちました。
しかし、息子は同じ失敗を繰り返し、私の目の前で友人たちに囲まれて暴力で反撃されている姿を見るのは、親としてはあまりにも辛く、勇気を振り絞って息子を救うために、大胆な行動を起こしました。

本当に怖くて、血液が逆流するような、大変な勇気が必要でした。

子ども達の間に割って入り、ひたすら面白い「関西のおばさん」を演じたのです。
一人一人に関西弁で声をかけ、漫才師のように軽く子どもを叩いたり、触れたりして、コミュニケーションを図りました。
子ども達は私のやることに大笑いしながら、気が付けば私と息子の周りには大勢の子どもが輪になって集まっていました。
そんな中、誰かが私に、「おばさん、漫才師のさんまみたい!」と声をかけてくれました。
私はその言葉をきっかけに、息子の性格や友達に対する思い、これまでみんなに誤解されて苦しんでいる息子の事を、子ども達に分かるように説明しました。
すると、いとも簡単に私の言葉を理解して「岡田、早く言えよ、お前いい奴だったんだな!」などと言いながら、一人ずつが息子にこれまでの事を謝ってくれたのです。
その時から息子は「岡田君は楽しい奴」と、新たな認識をされて、それ以来、イジメとは無縁の楽しい学生生活が始まりました。
以前は、私自身も息子の同級生の親になじめず、親達との距離も遠かったのですが、それ以降、皆さんが私を理解してくれたおかげで、親子ともども良い人間関係を築く事ができました。

些細な「習慣の違い」による誤解は、子ども同士の世界では日増しにエスカレートし、子どもの自殺にまで発展してしまうのです。

<市民活動団体 サークル・ダルメシアン>
この体験によって、強い危機感を感じた私は自分のやれることで子どもの自殺を食い止めたいと考えたのです。
私が体験したことを伝えることが出来れば、イジメで苦しむ子どもを自殺に追い込むこともなく、我が子の苦しみの理由を親が知ることによって、子どもの友人や教師たちに呼びかけて問題の解決が出来ると思ったのです。
その時、広報しんじゅくに掲載されていた「子どもサポートフォーラム」」という団体に電話をしました。
その団体の事務局長にお話を聞いてもらい、誘いを受けて一緒に活動することになりました。
その当時の「子どもサポートフォーラム」は設立からまだ1、2ヶ月が経ったばかりでした。
電話相談等も行ってはいたものの、暗中模索の手探り状態で、人は集うが何をすればよいか全く方向性が見えていませんでした。
参加者の教師や大学教授、区議達は、いじめの原因等について延々と議論はするものの前述した家庭での文化や習慣の違い等による些細な誤解からイジメに発展するという視点は、完全に欠けていました。
私はこれでは、いじめの問題の解決は永遠になくならないと強く感じました。

私は問題解決する方法のひとつとして、分科会の「ダルメシアン」を作りました。
活動としてミュージカルCDの製作を通じて、参加する親子の関係、学校でいじめや引きこもりで悩んでいる生徒の問題解決がスムーズにいき、多くの人達にその方法を広めたいと考えて、実行しました。
その結果は、社会福祉協議会を通じて朝日生命から助成金も頂き、新聞等にも取り上げられて、大変注目されました。
その分科会の活動を基盤にして、さらに一般に広げ、別団体として歩み出したのが「いじめ・虐待防止の市民活動団体 サークル・ダルメシアン」でした。

イジメられている子どもの親は、何らかの形で自分の子どもに異変が起こっているのに気が付いています。
また子どもも、親に心配をかけたくないと思いながらも、それなりにメッセージを送っています。
親が現実を直視し、勇気を出して対応すれば、問題は必ず解決します。
その第一歩を踏み出せるのは、子どもに対する親の愛情しかないのです。

サークル・ダルメシアンでの22年間の活動は、私と息子との体験から始まりましたがイジメに苦しむ子どもや親、教育関係者の皆さまと一緒に活動した結果、嬉しい事に少しずつ社会の認識も変わってきて、「親の持つ文化・習慣・風習の違い」から、多くの問題が生じている事が、明らかになってきました。
人を救うということは、大変な「勇気」がいります。
そして人としての内面が強くないと、他人は救えません。
しかし「愛情」があれば、大変なことも実は簡単に乗り越えられるのです。
それが私のこれまでの体験から得た答えです。



 

コンテンツ

    少女

 

 

 

  ♪1996年、岡田ユキが♪
いじめ・虐待防止の市民活動団体
サークル・ダルメシアン」を
立ち上げました。   
岡田自身の子育てや幼少期に親から虐待を受けた苦しみを乗り越えた体験を元に、同じような苦しみを抱えている人たちの問題解決になればとの思いで、活動していたところ、仕事仲間の音楽家たちが賛同して集まりました。 ♪♪♪